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Unforgettable Brass Pounders 4
97/12/12

WA6IVN、Steve、没後何年過ぎただろうか。彼は、WA6IVM、Rayの次男として、1960年代から我国でも名の知れ渡った存在であった。1980年代後半、Steveが亡くなって直ぐにRayの記した追悼文を翻訳し、某誌に投稿したことがあり、それでSteveの生涯をご存知の方もいらっしゃることだろう。

Steveは、元来はactiveなコンテスターであり、またDXerでもあった。1960年代には、ARRLやWWコンテストで、素晴らしい腕を見せてくれたものであった。当時既に彼は悪性リンパ腫に侵され、闘病生活を送っていた。ただ、当時のリンパ腫は比較的に良性なもので、腫瘤ができるたびにスタンフォード大学で放射線治療を受けるだけで、化学療法等を受けずに済んでいた。それで、20歳そこそこで結婚をし2児をもうけたのであった。彼と私の間柄は、コンテスト等でナンバー交換をするだけのものだった。

1980年頃、私がカムバックして以来、彼と7メガでしばしばQSOすることになった。私が、小児科の医師となったことを知ると、自分の健康の問題を少しずつ話してくれるようになった。血液疾患にも多少興味を抱き患者を診ていた私に、友人として専門的な助言を求めてくるようになった。血液内科の友人にも尋ね、分かることを伝えた。7メガでの殆ど毎日の交信は、この話題以外に、無線以外の趣味のこと、家族のこと、仕事のこと等に及んだ。当時は先の奥様とは別れ、Karenと再婚していた。ATTでエンジニアとして働きながら、無線やアウトドアでの生活を精力的に楽しんでおられた。言葉は少しきつくなるかもしれないが、生き急いでいた、という印象を抱いた。如何に自分は自分の生活を楽しんでいるかを、交信中にえんえんと聞かされ、正直な話し、閉口することもあった。しかし、それも自分の病気からくる不安を覆いたいという殆ど無意識の心の動きだったのだろう。

1980年代半ば、彼はより悪性のリンパ腫に侵されていることを、主治医から告げられる。そして、その後悪性黒色腫にも侵された。太陽の下で活躍することの好きだった彼にとって、家の中に引きこもらざるを得ないことはどれほどのストレスだったことだろう。そして、度重なる化学療法による重い副作用。亡くなる4ヶ月ほど前に、7メガで最後のQSOをしたが、何時もの雄弁なキーイングはなく、ぎくしゃくした途切れ途切れのキーイングになってしまっていた。

無線の世界で親しくして頂いた方で最初に亡くなったのが、彼であった。silent keyというありふれた言葉を、その本当の重みで感じた出来事であった。

鬼澤信
JA1NUT