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Unforgettable Brass Pounders 11
97/12/31

私が無線を、否CWを始めた頃世話になった方がローカルに何人もおられたが、今日はその中の御一人のことをお話しよう。1960年台半ば、当時私は東京都下清瀬町(現在の清瀬市)で2E26、その後6146シングルの送信機に、割り箸を蝋で揚げたスぺーサーのはしごフィーダーで給電した7メガ用のダイポールで運用していた。受信機はこれまた自作のMT管を10数本並べたトリプルスーパーであった。こういうと格好良いが、つぎはぎだらけのとんでもない代物であった。

当時、やはりパワー不足だったためか、本格的なパイルになると、出ると負け!の状態であった。そんな中、確か三鷹市から運用されていたJA1EQM氏にたびたび助けていただくことがあった。助けていただくというより、彼がDXと交信中に臆面もなくブレークをかけ、こちらに回していただくのである。EQMさんとはCWでしか交信したことがなく、ゆっくりラグチューさせて頂いたことがなかったように記憶しているが、当時慶応かどこかの学生さんであったと思う。

BK100(ハイマウンドのバグキー)を器用に使いこなして、毎日夕方DXと交信されていた。BK100は、チャッタリングが多く、往々にして重たいキーイングになりがちなバグキーであったが、彼は流れるような符号をそれで打っておられた。
ある日の夕方、それまで私が何ど呼んでも交信できなかったVR4DK(フィジー)と交信している彼を見つけた。パイルになったら取れないだろうしと、あつかましくも彼にブレークする。それと察してくれた彼は、QRXと私に返答してくれた。彼が件のVR4と交信を終えようとし、私に回してくれることになった。
勇んで自作のエレキーを叩く。おや、モニターしている自分の信号がふらついているではないか。自分の信号がとんでもないところに行ってしまう。その時用いていたVFOは、これまた自作で、弁当箱のようなアルミのシャーシを用いて真空管、6BA6だったか、やコイル、バリコンを中にすべて入れ正面にバーニアダイアルをつけコンパクトにまとめた自称傑作だったのだ。残念なことに当時同軸ケーブルなどという高価な部品の存在すら知らず、VFOの送信機への接続は裸のリード線で行っていた。今にして思えば、RFの回り込みは必至だったろう。EQM氏から回されて、周波数がとんでもないところに飛んでしまった私は、おろおろするばかり。残念なことにそのDXとQSOできず、EQM氏にも多大な迷惑を掛けてしまった。
こんなことがあったのだったが、彼はよく私の相手をしてくれた。夕方陽の沈む頃7メガをワッチしていると、彼のバグキーの信号が思い起こされる。

鬼澤信
JA1NUT