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Unforgettable Brass Pounders 1
97/12/06

WB6BFR、Ralph、は私のCWの第一の恩師である。1960年代半ば、彼は毎朝のように出勤前に7メガに現れ、よちよち歩きのnew comer であった私の相手をしてくれた。ログをひも解くと100数十回の交信を行っている。この数自体は大した物ではないが、一回毎に親切に相手をして下さったのを今でも良く覚えている。彼の電信は、ゆっくりとした、単語の間隔を十分取った美しい符号で、恐らく複式電鍵かバグキーの長点側のみを用いて送信していたものと思われる。どんなキーヤーを用いているのかを尋ねる機会を失してしまった。受信機はスターのSR600、送信機は自作だった様な気がする。キーイングは、グリッドバイアスキーイング特有の中抜けのする透明感のあるものであった。ゆったりとしたキーイングとあいまって、聞いている内に陶然としてきたものだった。

ある時、彼の息子(Allenだったか?)のバイトの話しになり、バイトに使っているというwheelの意味が分からず、繰り返し説明してくれたこともあった。当時中学生だった私にはもう一つ分からなかったような気がするが、根気強く相手をしてくれたことが印象に残っている。

彼の努めていたPAAは、その後潰れてしまったが、当時は米国で有数の航空会社であった。社員の中には無線をしていた人が多かったらしく、1980年代初めまで7メガでPAAネット(CW)をしていたようだ。私も10数年振りにカムバックし、そのネットでRalphに一、二度お目にかかり、互いのその後を報告しあったものであった。PAAの社員であったハムは私の知り合いの中でも、N6SC・W6UMP・W6VTK等がおり、彼らは現在もCWに活発に出ている。N6SCはRalphの直属の部下であったことも後で分かった。

Ralphと当時存命であった奥様が1966年か67年ころに来日され、上野精養軒の屋上で歓迎partyを開いたことがあった。今は亡きJA1KFNが司会をされ、JA1ADN、JA1YL、JA1CO等錚々たる面々の末席を、詰め襟の私が汚させて頂いていたのだった。

Ralphもお元気だとするともう80歳台半ばだろう。貴方が私にとってのCWのelmerだったと手紙で書き送ることにしよう。

鬼澤信
JA1NUT