BMの今では昔の話 (43)

6.25戦争の話1
6.25戦争(韓国動乱)が起きて60年になり国民の80%以上が戦争を経験しなかった世代だ。 それで今回は6.25戦争の話をしてみる。
 1950年6月25日6.25戦争が起きたが私はその半月前6月10日ソウル海軍本部から鎮海(チネ)基地へ転属発令を受けた。 突然腹が痛くなって診察を受けてみると急性盲腸炎だった。鎮海(チネ)海軍病院で手術を終えて3日後に6.25が起きたのだ。 何日間が過ぎるや負傷兵らが押し寄せてきて、私のような軽患者はそのまま押し出されて退院をした。 退院するやいなや配属された所は情報通信傍聴監視班であった。
 北韓人民軍は戦争開始3日でソウルを占領して、戦車部隊を前面に出して南へ南へ進撃してきていた。 私の任務は北朝鮮人民軍戦車部隊の通信状況を盗聴して報告することだ。 あまりにも緊迫した状況だと彼らも暗号を使えずにやっと位置座標だけを暗号化して平文で打電していて彼らの動態は直ちに把握できた。
 一ヶ月ぶりに洛東江(ナクトンガン)防御線まで押し出すことになるや連合軍はマッカーサー将軍の指揮で仁川(インチョン)上陸作戦を展開して9月18日ソウルを奪還進入に成功した。 ソウルを完全に回復した後38度線をすぎて北へ、北へと北進して元山(ウォンサン)、平壌(ピョンヤン)まで奪還して民族の念願の統一を目前にすることになった。
 UN軍の攻勢が持続するや中共軍が介入して戦勢は逆転されて戦争は長期化の兆しが現れ始めた。 中共軍の援助に力づけられて北韓人民軍はまた38度線を越えて南進をした。 この時数多くの離散家族が生じて辛い戦争の傷を永らく味あわなければならなくなった。 これがその有名な1.4後退だ。
 その後UN駐在ソ連大使の提案で休戦が成立して3年1ヶ月ぶりにあきあきとして続いた戦争は中断されたが相変らず勝者も敗者もない状態で南と北が対立している。

 私は休戦後海軍掃海艇通信長として乗船して勤めることになった。 この時から私のUC生活が継続されることになったがある日に日本局と交信を終えて、とても小さい信号で私を呼ぶ信号があった。 あまりにも小さい信号なので神経を集中してやっと交信に成功した。
 交信内容を整理すればヒューマニズム、感動それ自体であった。 彼は中国本土のどこかに生きていて戦争中に日本陸軍通信兵兵長だったという。 戦争が終わってその部隊が日本へ撤収することになった。 ところでその兵長は部隊の近所町内のある娘を愛していた。 撤収する日は差し迫るのに部隊と一緒に撤収をするか? 脱営をしてその娘と命をかけて逃避生活をすべきか? その岐路で彼は命をかけた愛のために脱営を決心した。
 軍人が戦時脱営は即決処分で死刑というものを知らないはずがなかった。 脱営に成功、愛する女性と深い山奥の村で数年間隠遁生活をしながら身分も偽装して中国人としての振舞いをするのに成功したという。
 人がしたい話が言えなくて生きれば病気にかかったり精神異常となるといったがこの兵長はどれくらいこの話をしたかったか? ところでいよいよその日がきた。 田舎町内で古物商をして過ごす彼にある日こわれた古物無線機が手に入った。 軍で通信兵をしてハムどうし交信するのを聞いてみた経験もあって数日夜を徹しながら無線機を修理してついに私と交信に成功したのだ。 私の船が西海岸にあって中国と近い距離なので交信が出来たのであって日本本土とは不可能だっただろう。 ただ一度の交信であったためその後は知るすべがないがその後の中国でも自由な旅行が可能になったので彼が描いた故郷日本の地にも行ってみただろうかと思ってもみた。

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BMの今では昔の話は 日本のA1 Club web pageにも日本語で翻訳されて掲載しています。
  www.a1club.net/hl2bm/bm-index.htm

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