BMの今では昔の話 (44)

 6.25戦争の話2
 米国統計によれば6.25戦争(韓国動乱)中に全体参戦国の死亡者は200万人に達したという。 韓国の死亡者は100万人を越えてその中の85%は民間人だ。
 ソ連統計によれば北韓の11%の人口が戦争を通して死亡したがこれは113万人に達するという。 80%の産業施設、公共施設と交通施設が破壊されて政府建物の4分の3が破壊された。 米軍は約54,000人の戦死者が発生した。
 戦争中臨時首都となった釜山(プサン)は避難民で飽和状態になった。 6.25戦争で経済的に最も大きな利益を得た国は日本だ。 連合軍の軍需物資調達と輸送、兵たん業務を担当したためだ。
 私は6.25戦争中に現在の妻と釜山(プサン)で会った。 私は掃海艇で一ヶ月に20日は作戦に臨んで、残り10日は軍艦の整備と補給品の調達、休暇等で釜山(プサン)にいるようになった。
 先任下士とともに釜山(プサン)で外出した。 彼女の親戚の家から出て50年余りを一緒に住んでいる現在の妻に会うことになったのだ。
 ソウルで1.4後退の時に仁川(インチョン)でLST輸送船に乗って釜山(プサン)まで避難のため下ってきた。 家族全部ちりぢりに別れて一人でLSTに乗ることになったがその船の中で弱り目にたたり目で家から持って出てきたお金や荷物ふろ敷包を全部なくしたという。 外出で出てくる時ごとに近くにいて交際するようになった。不慣れな所に女子の身で一人で出てきたので保護者が必要そうだった。しばらくして知ることになったが彼女と私は身分上に大きい差があった。 戦争でなかったら私とは近づきになることはできない人であった。 私は田舎の小さい町の教会の伝導師の息子で別に学んだものも、持ったものもない貧しい家の出身に比べ、その女性は銀行家の家庭で富裕な生活と高等教育まで終えた状態であった。 彼女は私より年齢が三歳上だ。 それでお母さんのように、お姉様のように私を愛してくれるようにと母性愛本能の感情を刺激した私の求愛作戦が成功を収めたようだ。
 新婚初には新婚の甘いことで別段異常なしに新婚生活ができたが円満な結婚生活をずっと維持するためにはまた後のためには私の実力を育ててその格差を減らす方法外には他の方法がなかった。
 韓国法令には国家技術試験1級ならば“大学卒業と同等な資格を認める”と規定している。軍にいる間に2級まで合格して除隊して1年内に1級に挑戦するようにと目標設定をした。 軍生活をしながらも熱心に勉強した。 目標にした通りよく進行した。 除隊後1年内に無線通信士1級、無線技術士2級、甲種船舶通信士など免許試験に合格した。 試験期間1年間は家庭生活しながら、職場生活して、試験準備までそれこそ血の出る努力と一日4時間以上寝ることがなかった。
 夫人と大きい格差を減らすための私の努力が今の私をあるようにした結果と考えてその動機を与えてくれた夫人にもいつも感謝の気持ちで生きている。

      愛する妻に

  愛するあなた
  涙あふるるほど有難いあなた
  年が過ぎ 月が過ぎ
  十年が過ぎ 二十年が過ぎ
  雨風が吹き 吹雪が吹いても
  一途な愛 変わりない気持ちで
  私のために犠牲になりしあなたに
  自分の心のそこからの感謝でこの文を捧げる
  自分の心のそこからの感謝であなただけを永遠に愛するだろう。

*この詩は30余年前に地方出張中に書いて郵便で送った詩だ。

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