William G.Pierpont N0HFF
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改訂2版-第19章 モールス通信の概略史
- その2第19章-その1 目次 第20章
ヨーロッパにおけるモールス符号の変遷
その会社の役員で、技術者でもあるフレデリック・クレメンツ・ゲルクはすぐに、ベイルの本をドイツ語に翻訳しました。この几帳面なドイツ人技師はすぐに、受信オペレーターを混乱させる要素を発見し、符号内にスペースを含むものや、種類の違う長点などを除いて、改良を加えたのです。この結果、短点と長点だけが残りました。このことは、送信時間を長くはしましたが、意思疎通の正確さを求めるための技術をより低く抑えることができたのです。彼は、
A B D E G H I K M N P S T U Vについては、そのまま残し、IはIとJに用いて、その他の文字と数字については新しい符号を割り当てたのです。他のドイツやオーストリアの州も、すぐにモールスシステムを採用しました。しかし、どの州も独自に改良を加えたために、各州間のコミュニケーションが困難になりました。1852年、ドイツとオーストリアの州は、統一した符号(と料金)体系を作るために、電信に関する会議を開催しました。
そこでの方針は次のようなものでした;
ゲルクのアルファベットが基本として使われましたが、
O P X Y Zの各文字は、現在使われている符合が割り当てられ、数字の符号も作られました。これらの符号は、1852年7月1日に、公式に標準符号とされたのです。現在のJと他のヨーロッパ言語の符号が、1865年のパリ国際電信会議で加えられ、長い間その符号は「"Continental" code」と呼ばれていました。また、1939年9月1日に、句読点のマイナーチェンジがありました。設 備
1845年には、記録機のクリッキングの音を聞くことで、文字を聞き分けられるオペレーターが現れてきました。1846年には、かなり多くのオペレーターがその技術を身に付けていたようです。しかし、この受信方法は役人には受け入れられにくく、時には禁じられることもありました。オペレーターは、耳で受信していても、その内容の確かさの証明や訂正の手段として、紙のテープに記録を残さなければならなかったのです。(受信の際にオペレーターたちは、読み手に分かるような略語を用いていました)
モールスの送信装置は、短点とスペースのある植字機械用の定規のようなものでした。ベイルの最初の電鍵は1840年に考案されました。それはノブのついた平らなスプリングで、後に現在われわれが用いているものに発展したのです。 耳による受信に関するエピソードのひとつとして、1847年のジェームス・レオナルドの話があります。彼は14歳でメッセンジャーボーイとしてフランクフォートの会社に入社し、一年もしないうちに、耳で受信することのできるオペレーターになったのです。そればかりでなく、彼は受信しながら他のメッセージを送信するということもできたのです。
オペレーターの中には、ひとつかふたつのメッセージを聞き取り、それを後から書き留めるという者もいました。
1847年5月1日、Albany Evening Journalは、「ベルという人物が通信室の印字機が壊れたときに入電したメッセージを聞いていて、それを正確に読み取って覚えていた」ということを記事にしています。
その同じ年に、ルイズビルで通信室に座っていたブローカーが、株式情報をただで聞いていたということで捕まりました(彼はオペレーターの免許を持っていなかったのです!)。またその年に、ピッツバーグのオペレーターが耳だけで長いメッセージを書き留めました。耳による受信は、可能だということだけでなく、実用的で時間の節約になることも証明したのです。 にもかかわらず、多くの会社が耳による受信をなかなか採用しようとせず、全てのメッセージが記録(印字)されることを要求したのです。
1852年、Erie RR社の車掌が耳によって受信した列車指令の受諾を拒否し、その受信を行ったチャールズ・ダグラスというオペレーターについて、監督者に報告をしました。ダグラスは叱責され、自分の技能をテストして欲しいと主張して、短いメッセージだけでなく、長いメッセージも正確に聞き取ることができることを証明したのです。これ以後、Erie RR社は正式に耳による受信を認めたのです。1856年には音響機が発明され、南北戦争中も、またその後も広く使われたのです。(保守的な会社は、相変わらず印字での記録を求めていました)
南北戦争までのオペレーターたち
電信は、列車の急送などの必要性によって発展しました。最初は、ほとんどの電信会社が鉄道の駅の中にあったのです。切り替えポイントのような重要な場所と同様に、各駅にもオペレーターが配置されました。市街地の会社よりもずっと数多くの町や田舎の駅がありました。ほとんどのオペレーターは地元出身でしたが、中には街の会社に惹かれる者も多かったのです。
電信はほとんど若者の仕事でした。大多数は14歳から18歳で、中には20代の者もいたのですが、それより上の者はほとんどいませんでした。彼らの多くは優秀で、速く正確な技能を持っていました。彼らは受信者以外の者へメッセージの内容を漏らすことはしませんでした。これら鉄道や公共の電信会社で働いていた若者たちは、南北戦争のときには軍のオペレーターとなって活躍したのです。時には仕事としての通信内容を逸脱して個人的なリスクを抱えることもありました。(彼らは常に戦いの最前線に置かれましたが、軍事的な名誉も報酬も受けることはありませんでした)
初期の頃は、書き取りに鉛筆が用いられていて、オペレーターの手元には十分な鉛筆が与えられていました。後に、多くのオペレーターがペンとインクを使うようになり、速度も30-35 wpmで正確に書き取られました。
南北戦争後のオペレーターたち
男性オペレーターの最終目的は、ハイスピードで正確に符号を扱うことのできる技術を身に付けることでした。そのようなオペレーターは高給を取り、地位も高かったのです。都市部の電信会社では、新人オペレーターを「しごく」のが通例でした。他のオペレーターたちが不明瞭なメッセージやハイスピードのメッセージを送りつけて、その新人が汗をかいて困り果てる姿を眺めたりしたのです。もしもその新人がその冗談を理解して、それを楽しんでいるようであれば、彼は「できる奴」とみなされて、電信屋の仲間として受け入れられたのです。しかし、もしも怒り出したり、手に負えないような様子であれば、「まだまだ新人」とみなされたのです。
1880年代にタイプライターが実用化されると、アメリカの電信会社で使用されるようになりました。熟達したオペレーターは50-60WPMで問題なく受信し、中には常に5~6語の「遅れ受信」をする者もいたようです。
「無線」の導入
第一次世界大戦の時には、このことが必要条件となりました。しかしながら、初期の火花式送信機を使用して、速度の速い「短点の多い」アメリカン・コードを用いると、空電の発生しているときに了解度を悪くしました。空電と信号は、その音が類似していて、そのとき使われていた低い周波数では、少なくとも一年の半分くらいが空電に悩まされていました。 この時期に、アメリカ空軍は全く異なるコードシステムを開発したのですが、第一次大戦の直前に大陸コードが受け入れられ、そのシステムは破棄されることになったのです。これと時を同じくして、大陸コードは、アメリカの商業通信やアマチュア通信の中でも標準とされていったのです。
「dit(ト)」「dah(ツー)」という言葉はいつ紹介されたのでしょう?
1926年3月にWireless Magazine が、1923年の大西洋横断を横断したF8ABの、「ツーツーツートト トツー ツートトト」という信号について書いています。もっと以前の例はないのでしょうか? 音響機では二つのクリック音を区別するために、「ト」の代わりに「iddies」、「ツー」の代わりには「umpties」が用いられました。また、「klick」と「kalun」という記述もありました。
職業オペレーターには正確さが求められました。彼らは送信の質によって評価されたのです。再送信を求めたり求められたりするオペレーターは不適格とされました。これは単に礼儀的な問題ではなく、経済性の問題だったのです。エラー顧客の要求に対する遅れを招き、電信会社に時間と費用を浪費させることになるのです。上級の電信技士は、受け手の技術に応じて電文の長さを調節していました。
あるオペレータの経験によると、不注意(不正確)なアメリカンコード(モールス)を音響器で聞くと、インターナショナルコード(CW)よりも判読が難しくなります。 そのような傾向になる単語は: joy jack jail Japan jelly jewel jiffy join jolly jungle jury quick quality queer equip quote ill long loss late labor loyal legal limit lip などです。
「AR」という符号は、アメリカン・モールスの「FN」(finished)からできたものです。